エストニアのボグ(湿原)を訪ねる:旅行者向け完全ガイド

エストニアのボグ(湿原)を訪ねる:旅行者向け完全ガイド

Source: Sven Zacek, Visit Estonia

ロメット・ヴァイノ(Romet Vaino)はツアーガイドで、趣味で写真を撮り、自然について専門に書いているブロガーでもあります。最近、彼はエストニアの湿原や沼、湿地帯の完全ガイドを作成し、ハイキングを夢見る旅行者たちに提供しました。ボグとは何か、その背景にはどんな物語があるのか、いつ行けば良いのか、どこのボグに行けば良いのかを教えてくれます。

エストニアのボグは、かつての“恐ろしい場所”というイメージから、今ではエストニアで最も愛される風景のひとつへと大きく変貌を遂げました。エストニアの田舎と野生動物を見ようとする全ての旅行者にとって、エストニアのボグはトップクラスのアトラクションです。

ボグとは何でしょう?

ボグ(以下、湿原)はエストニアで最も古い自然景観であり、中には約1万年前のものもあります。最初の湿原は、最後の氷河期が終わった直後に出現しました。厚さ1 km程の氷河の氷床が北極に向かって溶けていく過程で、氷河の氷でできた窪みに溶け残った雪解け水が溜まっていきました。その後、数千年の間に、その酸素の少ない雪解け水でできた浅い湖の中で、植物が成長し、枯れていきました。その結果、枯れた植物は分解されることなく、泥炭や芝を作り、水を酸性に変えました。毎年、湿原の苔むした表面の下には、部分的に分解された有機物が1層ずつ蓄積されます。この様な働きが出現当初から繰り返されてきました。

エストニアの湿原では、泥炭が蓄積されるペースは年間1mm程度です。ほとんどのエストニアの湿原の泥炭層は平均5~7メートル程あり、これは約5000~7000年の歳月に相当します。数千年の間に、この地形はさまざまな変遷を遂げてきました。最初のうちは、泥炭の堆積は植物に大きな影響を与えませんでした。それは泥炭層が薄いので、植物が栄養豊富な地下水に到達することができたからです。しかし、千年、二千年と経っていくと、泥炭の層は厚くなり、より生命力の強い植物が生き残りました。それにつれて景観もが変わって行きます。白樺の木が減って行き、代わりに松の木がゆっくりと繁殖し始めます。この変化を動的泥炭と呼びます。

その後、泥炭の層が厚くなり、丈夫な植物だけが生き残ることができるようになります。この第3段階における状況を、湿原または隆起湿原と呼びます。この段階までいくと、この巨大な有機スポンジの中に、たくさんの湿原湖や湖を見ることができます。つまり、植物たちは栄養豊富な地下水を利用することができず、地中に蓄えられた雨水だけでできた完全に別の生態系を形成しています。また、湿原は、大量の水を蓄えることができる巨大なスポンジのようなものです。湿原を作る植物として知られるミズゴケは、その体積の20倍近くを吸収することができるからです。つまり、湿原はある意味、巨大な貯水池でもあるのです。


エストニアの湿原について知っておくべき事実

  • 最も古い湿原は、9000~10000年前のものです。全てということではありませんが古い湿原は南部に位置することが多く、氷河の氷が先に溶け放出されたからです。
  • 水苔の影響で湿原の水は酸性です。
  • 水は本当に綺麗で飲むことができますが、喉の渇きを潤おすことには向いていません。(ミネラル/栄養素が含まれていません!)
  • 地中が酸性で酸素の少ない環境なので、戦車から人体まで、様々な物をそのまま保存するのにとても適しています。
  • エストニアの22%、もしくは1/5が湿原や沼地、湿地帯で覆われているという資料もあります。ただ、それは事実ではありません。この数字には、ソ連によって破壊された湿原でピートの畑や芝、採掘場になった場所が含まれています。実際の数字は6〜7%程度だと言われています。
  • 昔から地元の人々は湿原を恐れていました。エストニアには、湿原や沼地に関連する言い伝えが数多く存在します。 

エストニア人と湿原にまつわる物語

スタディ トレイル(Hüpassaare)

Photo by: Karl Ander Adami, Visit Estonia


エストニアで最も古い人類の居住地は、エストニア南西部にあるプリ村もしくはPulliと呼ばれた集落です。科学者たちは、10,000 – 11,000年前だと考えています。先ほども記したように、最古の湿地帯は約1万年前のものです。よって、ここで生きてきた人々は、他の地域ではあまり見られない風景と共に発展してきたと言えるでしょう。

エストニアの人々は、最初の湿原の出現と、森の誕生を目の当たりにしてきました。このことが、私たちが自然と強い絆で結ばれている理由かもしれません。このことは、文化にも大きく反映されています。例えば、エストニア語には自然の音(風や水)を表現する言葉をとても多く持っています。ただ、湿原との関係はとても長いですが、それは決して安定した関係ではありませんでした。興味深いことに、湿原の近くで暮らす地元の人々の湿原に対する認識は常に変化してきました。現在のような湿原との関係や捉え方は、100年前には考えられなかったことでした。

食料供給源としての湿原

苔が薄い雪解け水の溜まった湖を覆う前の初期には、エストニア人の祖先たちはその地域を水路として使い移動していました。氷河期が終わったばかりで、エストニアの大部分が水に覆われていたことを思い出してください。その後、数千年の間に植物が生え、スポンジ状の泥炭層が形成されるようになりました。

湿原は水中とも陸地とも違う奇妙な景観となり、人々は湿原を避けるようになりました。その理由は、非常に沈みやすく、湿原を通り抜けるのが本当に大変だったからです。物理的な難しさに加え、同じような風景の中を目的地まで的確に進むことも大変でした。どこを見ても景色が似ていて、目印にできる頼れるものがなかったのです。


当時、湿原を訪れる数少ない人たちがハンターでした。意外かもしれませんが、エストニアで最も重い動物であるヘラジカは、沼地や湿地を生息地として好みます。広い湿原や厳しい地形が、ヘラジカに隠れ家を与えてくれるのです。ヘラジカのほかにも、さまざまな種類のライチョウがこの湿原を好んで生息しています。そのため、初期の狩猟採集民の部族は、湿原で狩をする道を探さなければなりませんでした。プリ村の調査結果によると、初期の部族は主にビーバーやヘラジカを狩っていたようです。狩猟は男性の仕事で、初期の部族の大半は湿原に行ったことがなかったことが推測されます。そのため、彼らには有力な経験や情報はなく、人から聞いた話を参考にして狩をしなければなりませんでした。

 避難場所としての湿原

エストニア人は、スウェーデン人、デンマーク人、ドイツ人がバルト海の東部地域を征服し、キリスト教を広めるための大規模なキャンペーンを組織した 13 世紀まで、無宗教で生きていました。

歴史家によると、当時、エストニアの町は全人口の6〜9%にしか居住地区を提供できませんでした。その結果、エストニア人の90%以上は自然の避難所である湿原に頼らざるを得ませんでした。湿原以上に身を隠すのに適した場所はありませんでした。迷いやすく複雑な地形、簡単に沈み込む地面(特に馬や重砲など)は突然、エストニア人にとって恐怖だった湿原が自分たちの命を守る避難場所に変わったのです。そう、エストニア人の湿原に対する認識が変わったのです。

“開放的な空間のどこに人が隠れることができるのだろう“と思うかもしれません。その答えは「Bog Island(湿原の島)」です。島とは、沼の苔むした表面にそびえ立つ丘のことです。この丘は、砂利や砂などで構成されており、基本的には鉱物のしっかりした土地です。したがって、砂漠の中のオアシスのようなものであります。通常、沼島は背の高い森林に覆われており、沼地よりもはるかに多くの食料を得ることができます。

#EstonianWay

Photo by: Alari Teede, Visit Estonia


エストニアの湿原についてもっと知りたい方は、こちらのガイドをご覧ください!(英語)

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